達人コラム
2017.07.31 | 生活スタイル
掃除はお坊さんの修行の一つでもあり、心ともつながる深い作業です。浄土真宗本願寺派光明寺の松本紹圭さんに、大掃除の意義や、部屋も心もすっきりする掃除との向き合い方についてうかがいました。
年末の大掃除は、新しい年を気持ちよく迎えるために行われてきた日本の風習ですが、『くらしの現場レポート: 今どきの大掃除事情 「年末」にこだわらず「できる時」に大掃除』でも、皆さんがその気持ちを大事にして大掃除に取り組まれていることがよく伝わってきて感心しました。
毎日、きれいに掃除しているお寺でも、年末には大きな脚立を出して、すすを払ったり仏具を磨いたり、普段なかなか手の回らないところの大掃除をします。
仏道では、掃除は「作務」という修行の一つです。ブッダの弟子に周利槃特(シュリハンドク)というお坊さんがいて、自分の名前も覚えられないほど物覚えの悪い彼に、ブッダは1本のほうきを渡し、とにかく掃除をするように言いました。周利槃特は「ちりを払い、あかを除かん」と唱えながらひたすら掃除を続けるうちに、ちりやあかとは自分の執着心のことだったと気づき、悟りを開いたと言われます。
つまり、掃除は汚れを取るだけでなく、心の汚れやくもりを除いて、「気づき」を与えることもできるのです。「気づき」とは、自分がやっていることに向き合うこと。掃除は体を動かし、五感を働かせながら、空間の隅々にまで意識を行き渡らせるので、多くの気づきを与えてくれます。
日本の小学校や中学校では、掃除は生徒たちが行うのが当たり前ですが、この習慣は海外の学校ではほとんどないそうです。これは、日本では掃除が「汚れを落とす」だけではなく、「心の内面を磨く」ことにつながると考えられているためです。仏教的な考え方も影響していて、仏教では「自」と「他」はひと連なりのものであり、すべてが関わり合って存在していると考えます。教室も部屋も自分の一部であり、部屋が散らかっていると考えがまとまらなかったり、雑巾がけをして部屋がきれいになると気持ちもすっきりするのは、掃除と心が直結しているからです。
もう一つ、掃除が人間の心と重なるのは、きれいになるとすっきりするけれど、すぐにまたちりが積もっていくところです。たとえば禅宗では、生活そのものが「行(ぎょう)」であり、一つ一つの行いを「気づきをもってする」ことが悟りであると考えます。悟りというゴールを目指して行うことではなく、すること自体が悟りであり、終わりなくし続けていくものです。
日々の掃除が面倒くさくて、さっさと終わらせてしまいたいと感じている人は、「心を磨くひととき」と捉えてみてはいかがでしょうか。
大掃除は単に「掃除」というよりも行事としての意味合いも強く、お寺でもとても大切にしています。檀家さんにもお手伝いいただき、この1年に感謝しながら一緒に掃除を行うお寺も少なくありません。みなさんも家族の大切な行事の一つとして、年末の大掃除をされることをおすすめします。家庭でも、家族で協力しながら行うことに意義があり、今年も家族みんなが1年を過ごすことができたことを喜びながら一緒に掃除をすることで、家族同士の感謝の気持ちも深まります。役割分担をするときは、日頃それぞれが担当しないエリアを掃除すると、新たな気づきも生まれます。
掃除が心のあかを落とすものであるならば、大掃除は1年分の心のあかを落とすものでもあります。大掃除で心が磨かれ、くもりが晴れるから、すっきりと気持ちよく新年を迎えることができるのです。
『くらしの現場レポート』では、大掃除を10月頃から前倒しで行ったり、5月や8月などのまとまった休みが取れる時期に行う方が増えているという報告もありました。今では仕事の業態も生活の在り方もさまざまですから、年末にこだわることなく、家族と役割分担をしながら、自分の置かれた状況の中で工夫されていることはとても良いことだと思います。
仏教でも、「こうしなさい」と型にとらわれるのではなく、状況に合わせてしなやかに対応できることを大事にしています。掃除も、やらなければいけないことではなく、やれない時はやれないなりに創意工夫をして、状況に合わせて臨機応変に対応してみましょう。大切なのは、今やっていることを感じること。心ここにあらずの「ながら掃除」は良くありません。忙しくてじっくりできない時は、いっそ「今日はやらない」と決めてしまい、できる時にしっかりとやれば良いのです。今やっていることに集中して、部屋と心のちりやあかをすっきりと取り払いましょう。
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