当時、私はボランティアで訪れていた高齢者施設から帰ってきたところでした。家の裏は堤防で、すぐ近くに消防団が水門を閉める場所があり、家までドーンという音が聞こえると「警報が出たな」とわかります。あの日も水門の音は聞こえました。本来なら、いつも訓練しているようにその時点で逃げなければいけなかったのですが、“まさか”と思って、私はそのまま家で片付けをしていました。ようやく避難したのは、帰ってきた夫の「もうみんな逃げて誰もいないよ」という言葉を聞いてからです。
小さなお寺に避難したのですが、その日の夜は200人以上の方がいました。最終的に残ったのは、ほぼ高齢者ばかり47名。避難してきたときは元気だったおばあちゃんたちがトイレもできなくなるくらいショックを受けて動けなくなったり、寒かったので風邪気味の方がいたり。なにより大変だったのは、トイレでした。避難する場所はあっても電気はつかないし水も出ないから、お寺のトイレが使えない。トイレの場所を決めて作ったのですが、それを片付けるのが大変でした。
家族が一緒にいればいいのですが、別々に避難した場合に高齢者の面倒をみる人がいない。一緒に避難していた方が、ポータブルトイレを使った高齢者のおしりの始末を手伝うような状況でした。
当時は本当になにもなくて……話していると今でも涙が出てきます。みんな同じ、家もない。そんな状況で21日間一緒に過ごした方たちとは、今でも親戚以上のお付き合いをさせてもらっています。「漬物つけたよ」「じゃがいもとれたよ」といって持ってきてくれたりもします。本当にありがたいなぁと思っています。
グリンピアの仮設は407世帯。仮設に入って何日目かに、県内の支援者が段ボール箱400個もの野菜を届けてくれました。食べるものに困っているときにいただいて、みんなで感動したのを覚えています。箱の中には1輪の花が入っていて、そのあたたかい心遣いにも感激しました。その方は400個くださったのでみんなに配ることができましたが、少しずつのものでも、みんなで分け合いました。
仮設住宅は4畳半が2つ。狭い家だと4畳半1つ。毎日ずっとこの部屋にいるのはつらいので、集会所に集まって楽しみながらできることをやっているうちに、支援者の方が「こんなにたくさん作ったなら売ったほうがいい」と言ってくれて販売することにしました。支援のためにとたくさん買ってくれる方がいるので、どこか場所を借りようという話が出て、たろちゃんハウスに入って本格的に販売するようになりました。
(ゆいとり=地域の人たちで助け合って共同作業をすることを意味する方言)
私が一番つらかったのは、支援に来てくれた人たちがコーラスで必ず「ふるさと」を歌うことでした。「私のふるさとはなくなったのに…」という気持ちで、ずっとずっと歌えなかった…。でもようやく、昨年来てくれた子たちが「一緒に歌いましょう」と声をかけてくれたときに初めて歌うことができたんです。うれしかったです。
ずっと支援をしてくださっている岩手日報さんや花王さんたちから「生の声を届けた方がいいのでは」と後押しされ、現地に行くことにしました。私たち自身が暖簾をいただいて当時とても役立ったことを思い出し、熊本行きが決まってから急いで夏物の素材で暖簾を作りました。暖簾をかけるものがないことも経験上わかっていたので、100円ショップの突っ張り棒も買って一緒に持って行きました。
地域にせっかく立派な集会所があるのに、「今日初めて来た」という方はとても多かったです。コミュニティの大切さはわかっていても、こういう機会でもないと人は集まらないんですよね。私たちと同じような手仕事を自宅でしているという方にもお会いしましたが、集会所でみんなでやれば、人の輪も広がるはず。そういうところは私たちのまねをしてほしいなと思いました。
岩手県宮古市田老地区で手芸サークルを運営する大棒さん。仮設住宅での暮らしを通して、周囲と助け合うコミュニティの大切さを痛感したそうです。熊本地震の際には手づくりの“暖簾”を持って現地へ赴き、自身の経験を活かして支援活動にも参加されました。